− COLUMN −
犬について、犬でないことについて、考えたり経験したりしたことのメモです・・。
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話すこと、そして人と動物との関わり
心理のお勉強をしているとき、面接技法の時間があった。クライアント役、セラピスト役、オブザーバー役の3人一組で短いセッションをするというワーク。かあちゃんがクライアント役のときのお題は“近頃うれしいこと”。かあちゃんはその頃、レンを飼ったばかりであったので、「犬を飼ったんですけど、それがすごくうれしいんです」と話し始めた。 話していくうち自分で「なんでこんなにうれしいんだろう?新鮮な感覚なんだろう??」と自問する。それをセラピスト役の人が深めてくださる。そして思い至ったことは・・・子どもの頃飼っていた犬が自分では飼いきれず、結局逃げていってしまったこと。それにとても罪悪感を感じていたこと。 「犬も飼いきれない自分が子どもを育てられるか・・・」などと自信をなくしていたこと。だから今、こんなにうれしいんだ。深い・・・。人と動物との関わりは心の奥まで響くんですね。特に子どもにとっては大きいかも。。。世のお母さん、子どもがいくら『犬の面倒は全部みる!責任もつ!』と宣言しても、決してまかせっきりにしてはいけません。子どもは犬の面倒はみきれません。フォローをお忘れなくお願いいたします・・・。
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レンが来る前に
コラム1で子どもの頃犬を飼って、面倒をみきれずに罪悪感が残った、ということを書いたが、レンが来る前にもう1コ犬とお別れがあった。 障害を持つおば夫婦の家に、11歳を過ぎた犬“ベル”がいた。捨てられていた犬らしい。おじは足が悪く、おばは目と耳が悪かったので、散歩などは行っておらず、排泄などは小さい庭にしていたようだ。おばの調子が悪くなって入退院をくり返すようになり、飼いきれなくなったと聞き、大決心をしてベルを預かることに。ある休日、車でベルを引き取りに行った。片耳の垂れたその犬は利口そうだったが、ものすごい口臭!!いくらなんでもすごすぎる!! 近くの動物病院を訪ねた。結果は、かなり進行した“歯周病”で、歯ぐきが炎症を起こしているという。麻酔をかけてクリーニングをすれば、痛みも口臭も改善するとおっしゃる。少し迷ったが、ベルは痛がってか、かゆがってか、前足で口をこすり、よだれもたらしていた。結局言うとおりにした。 処置の結果、口臭はなくなったが、ベルの歯は数本抜けてしまった。根っこまで腐っていたという。そして数日後、ベルは亡くなりました。 なぜベルが死んでしまったのか、今もわからない。ベルを一番かわいがっていた白いムスメは、死んだベルを抱いて、公園のブランコに座って泣いていた。かあちゃんも、1ヶ月半しかウチにいなかったのに、涙がごうごう流れた。そして強烈に反省した。ちゃんと勉強すること。自分の犬の健康や命には、飼い主が全責任を持つこと。
ベルは甲斐犬ミックスでした。
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人と犬の距離
どこかの雑誌に“日本の犬は、以前の番犬、犬畜生から、ここ10年ほどで突然人間の子ども並みの扱いになった”と書かれており、ナットクした覚えがある。外国の犬事情について語れるほど行ったことはないが、特にヨーロッパでは犬と人の関係は日本と違うように感じる。うまく言えないが、犬も独立した犬格(?)を持っている、というか、もっと自然で対等、しかし犬は犬、と考えている、というか。 これは農耕民族と狩猟民族、という違いや、宗教観、現代の様相など、多くの要因がからみあっているのだと思う。農耕、狩猟の違いはよく語られるが、宗教観の違いによる指摘はおもしろい(*)。日本におけるアニマルフェア(動物福祉)の観念は、仏教倫理にもとづく殺生禁止と、放生・・・自由にさせるには野に放すという発想、生きとし生けるものとの共生、という点が特徴だというものだ。特に飼育下で動物としての行動を発現させる、という発想がないところがヨーロッパとは違うという。日本では、動物としての行動は放生しなければ保証できず、人は関われないと考えるということか。
犬としての行動って、ニオイクンクンしたり、穴を掘ったり、運動したり、仲間を意識したり、などがあると思うが、人間のコントロール下でそれを保証(?)する、という共生の形があると考えてもいいと思う。放生しなくても、人間と犬が一緒にいる中で、それぞれの行動を取りつつ共に生活していけるのでは。犬は犬として。人は人として。そのためには、犬に関する理解や知識がなくてはならない。そのへんの意識が薄いと、犬はやはり畜生で汚いもの、となったり、逆に犬と人の距離が近くなったりするのではないだろうか。
* 佐藤 衆介, 日本における動物への配慮思想の特徴と家畜福祉研究の必要性, ヒトと動物の関係学会誌,2005,APRIL
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非言語(nonverbal)
臨床心理学で最初に学んだのは、ノンバーバルのことだったかもしれない。そして、コミュニケーションとは、言語(verbal)で伝えるものよりも、非言語(nonverbal)で伝えるものの方がはるかに多いということも学び、実感した。どうしても人は、言葉に頼りやすい。もちろん言葉は大変大事であり、言葉の交流によってさまざまなことが成り立っているが、言葉でない部分にもっと注目してもよい。 犬とのコミュニケーションを考えてみる。犬は言葉を持たない。でも気持ちは通じる。犬はこちらのしぐさや雰囲気を観察し感情を推察し、対処行動をとる。飼い主も物言わぬ飼い犬のしぐさや目つきの意味を理解する。レンタオとの関わりは、臨床心理学を学ぶ上で大変役に立ったと思う(マジ)。 ニンゲンだけが言葉に一喜一憂し、翻弄される。それはもちろん豊かな関係を生むが、対人関係で悩む人の多い現代、非言語について考えることも一つの手かもしれない。あの言葉を言ったときのあの人の非言語のメッセージはどうだったか。目線や顔つき、姿勢やしぐさはどうだったか。それらは他のことを語ってはいないか。言葉より、それらの方が正直であることが多い。犬がそうであるように。
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子離れ、親別れ
エリクソン.E.H.という心理学者が、人間の一生には8つの発達段階があって、前段階の発達が成し遂げられて初めて次の発達がある、などと申しました。それぞれの8つの発達段階には到達すべき課題があり、それを彼は psychosocial crisis (心理社会的危機)と名づけている。危機っていうとおおげさで、課題、といった方がわかりやすい。たとえば、生後1年までには母子関係の中で、人間や世界への信頼感を獲得することが課題であり、それが獲得できないと、人間・世界への不信感が基本に植え付けられてしまう、とか、学齢期の課題は学校を中心として勤勉性を身につけることが課題、といったような。 しかし、エリクソンの発達理論は、中年からあとは結構大雑把なんですよね。30歳台〜60歳くらいまでをひとくくりにしてあり、課題は生殖性、次世代への受け継ぎ、みたいな。私はもっと中年以降も、直面する発達課題はあると感じています。特に子離れと親が亡くなる時期はほぼ同時にやってくる。これは1人の人間にとってはとても大きなことです。しかも子どもの数は少ないし、親子の関係は密接になっているし。地域社会や職場の中で、自分の生きがいや存在意義を見つけることが大事だと思う。 子離れはまだいい。テキは右上がりだからね。しかし、親との別れ(さすがに親離れは終わっているとして)は、なかなかキビシイものがあります。 そしてこの時期、女性は更年期を迎える。ホルモンも変わり、自分の生活のペースも変わり、ということになってくると、中高年のうつ病率が高いのもうなずける。まんまとうつになるよりは、心の準備をするのが一番の防衛策でしょう。喪失を受け入れる心の準備 を少しずつしていくしかない。時に犬のチカラを借りながら。
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なぜせっけんか
今年(2007年)の1月に、上越でせっけん作りを教えてもらった。修論がかたづいたらぜひやりたかったことだった。せっけん作りは手間も力も、多少お金もかかる。でも、今も懸命に時間をひねり出しては作る。 なぜせっけん作りにハマったのでしょうか?もともと何かにハマりやすい性格。でも、ちょっと大げさだけど、もうすぐ半世紀を生きるという年齢になって、今まで見過ごしてきた自分の感覚を発見した、という感じがある。
どうも私は身体からの情報を受け取るのが下手だったようなのだ。頭で考えるというときこえはいいが、身体感覚について鈍感だったと思う。運動するのでも、まず頭で考えて身体を動かす。病気になるときも、なかなか自分で予兆を感じ取れない気がする。大学院でリラクセーションを習ったときも、最初はピンと来なかった。身体にいろんなことを聞くことが有効だとわかってきたのは、ごく最近。
お風呂で言えば、ずっとお風呂嫌い、特にカラダを洗うのが嫌だった。それは私が不潔なヤツで、面倒くさがりやだからだと思っていたが(ネガティブ・・・)、普通のせっけんでカラダを洗うとカサカサ乾燥するのが嫌だったのだ。だから、最初に手作りせっけんを使ったとき、その心地よさにビックリ。 初めて「お風呂って、カラダ洗うって、気持ちいい!」と思ったのでした(バカだね・・・)。自分の感覚って、人と比べるのが難しい。でも徐々に、人生生きるって、自分の感覚を大事にしていくということだってわかってきた。ちょっとした違和感や感情、そして身体感覚になるべく耳を傾けて考えていくことを大事にしていきたい。もちろん相手の感覚を尊重していくことも。 そんなことに気づかせてくれたのが、手作りせっけんでした。
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甘美な関係
「人間関係は難しい。なぜ犬とのようにいかないのだろう?」とぼやいていた犬飼いと話をしたことがあるが、それはあたりまえだ。犬と人との関係と、人間関係が一緒のはずがない。 確かに、子育てと犬育ては似ている。「子どもと犬のしつけはドイツ人にやらせなさい」という名言(?)もあるそうだから(これは、いけないことはいけない、とビシッとしつける、という意味らしいが)、多くの共通点があることだろう。凸凹があるにしても、犬の知能は幼児程度あり、そして何より子どもよりも子どもらしい。飼い主を絶対的に信頼し、無欲で、飼い主の関心をいつも欲しがっている(そうじゃない犬もいるようですが、それは別の問題として)。人が欲する対人関係(親子関係)の最もおいしい部分を犬は与えてくれる。 さらに、このネオテニーの権化は、自立をしない。いえ、させてはいけない。これは親としては禁断の、しかし心のどこかにある、「ワタシのところにおりなさい」という、言ってはいけない、やってはいけないことを、堂々とやれるのだから(近頃は人間の子どもに対しても堂々とやっている親はいるみたいですが)、葛藤は生まれません。この関係が心の安息を生むであろうことは、想像に難くない。 しかし、それは相手が犬だから。決して人では与えてくれない喜びを与えてくれる犬だからです。それをどこかでわかっていないと、犬との関係に逃避して、人とうまくいかなくなることもあるかもしれない。それでは本末転倒だ。 犬との関係を十分楽しみ、人との関係を広げていく。あたりまえのことだが、それを混同している人がいるように感じるのは、私だけだろうか。いや、他でもないかあちゃんだってか?・・・否とは言えない。
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吸収装置
レンはアスファルトの上では決して排泄しない。遠くの草原までガマンする。彼女の排泄の美学は土と草に保証されている。 世の中全体を見てみると、近頃とみに吸収装置がなくなりつつあるように思う。「絶対に正しい」ことが声高に叫ばれ、他の選択が許されない、こんな世の中だったか?メタボは自分をコントロールできないダメ人間、喫煙は犯罪に等しい。そして、飼い犬のウ○チを拾わないヤツは、犬を飼う資格はないのだ。モチロン、健康を考えて食生活をコントロールした方がいい。喫煙は自分にも他人にも決していいことではない。犬のウ○チを拾うのは、最低限のマナー。しかし、いつの世も、なかなかできない人たちが一定数いるのだ。それを排撃するだけでは問題の解決にはならない。排撃された人々は、暗い袋小路に入るしかない。その怒りは陰湿な手段に置き換えられるかもしれない。 なかなかうまく行かないこともあるよね、と待つ余裕、彼の本質を信じるという信頼感、間違ったやり方をしている彼の立場を考えてみる思いやり、そんなあたりまえのことが徐々に減っているように思う。人々は「絶対正しいこと」「みんながそう思うこと」を絶対の基準にして、安心を得ることに汲々としているようにも感じる。 都会から土がなくなり、犬のオシッコを吸収する場がなくなったように、人々の心から、社会から、どんどん「ちょっとダメなヤツ」「ちょっと苦しい時」を許容できる気持ちの幅、精神的な吸収装置がなくなってきつつある、と思うのは私だけでしょうか。私は“絶対正しい”ことだけをできない人とも、一緒に生きる方策を考えたい。
そして最後に。人間にとって、最高の吸収装置はコンパニオン・アニマル。彼らは何も評価せず、ただ信頼の心で私たちを受け入れてくれる。弱き心の私たちは、そういうまなざしに支えられたい時もあるだろう(毎日だってか)。そして翌日の元気を生み出すことができるのだ。
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麦ばたけ
12月の最初の日、高校卒業30周年の同窓会があった。かあちゃんはお仕事だったので、2次会からの出席だったが、1次会は130人以上、2次会にも50人以上の参加だったらしい。みんな子育ても一段落して、昔を振り返る時期なんですね。 K君の猫背の角度も、M君の笑い方も、Y君の眼力の強さも、Pちゃんのきれいな足も、何も変わっていなかった。今社会的に責任を担う働きざかりの人たちが、ここで丸裸の昔を共有している。その安心感がとても貴重に思えた。10年前も「卒業20周年同窓会」があったのだが、そのときとはまた何かが違う。みんなの中に曰く言い難いゆとりが生まれていた。 翌日から、自分の中にじわっとパワーがみなぎっているのを感じた。幸せな記憶が活性化されて、今の自分を元気づけてくれる、そんなカンジ。まったく別な場所で、みんな一緒に生きている同い年。思い出にこんなに勇気づけられるって、年をとったから?そうなら、年を重ねるって、豊かで幸せなことだ。
1週間たった土曜日、車を運転中、突然同窓会の帰り道でのPちゃんの言葉を思い出した。「○○ちゃん(かあちゃんのこと)は、優しい。優しかったよ。」急に涙があふれてきた。私はずっと優しくなりたかった。どうして優しくなれないのか、ずっと悩んでいましたっけ。でも、私、優しいかも。優しいところもあったかも。それを30年前にちゃんとわかってくれていた人がいた。そのうれしさが涙になって流れたのでした。
星の王子さまは、友だちになったキツネと別れるとき、キツネに言います。「(別れが)悲しいなら、友だちになったって、何もいいことはないじゃないか。」キツネは答える。「いいや、ある。麦ばたけがあるからね。」・・・たとえ別れ別れになっても、麦ばたけの金色の穂を見るたび、王子さまの金髪を思い出すことができる、というのです。(星の王子さま:サン・テグジュペリ著)今、自分にとっての麦ばたけを実感できるのは、とてもうれしい。麦ばたけの価値をしみじみ味わえる自分もいい。そんなことを考えながら、今日も仕事に向かうかあちゃんであった。
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涙のフタ
歳をとると涙もろくなる、というのはまったくの実感。歌を聴いては泣き、犬の映画の予告編を見ては泣き、TVの子どものドキュメントを見ては泣き、飲み会で12年夫の介護をしている人の話を聞いては泣き、おじの米寿の会で一人のおばが来られなかったといっては泣き、と忙しい。酔っぱらうとそれはもっと過剰になる。レンがいとしいとじわり、タオがかわいいとほろり。アホちゃうか。涙のフタは壊れております。
涙を流すのは恥ずかしいことだと思ってた。負けず嫌いで見栄っ張り、前向きがウリのかあちゃんだったから。でも今、この歳になって、やっとそんな自分を受け入れられるようになった気がする。今は情にもろい、感情に素直なおばちゃんです。 本当の涙(変な言い方だけど)って熱い。自分の頬を伝っていくとき、その熱さがカタルシスと成長に通じる、ということを院時代に体験した。 犬を抱き、話しながら涙を流す。かあちゃんにとっては至福の時ですが、犬にとってはメイワクなだけかもしれない。でも犬は許してくれる。ニンゲンにはしませんから、たまにしかしませんから。は〜、レンタオがいて助かる。
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イメージ
「イメージトレーニング」とか「彼のイメージはね・・・」とか、“イメージ”という言葉はよく使われる。スポーツ選手など、どれだけポジティブなイメージを抱けるかで勝負の結果が大きく左右されるというから“イメージ力”というものはすごいものらしい。
正直、かあちゃんは“イメージ”が大の不得意分野でございました。そんなよくわからないもの、関わりたくないし。そんなもんに左右されたくないし〜。 でもその後ずいぶん考えが変わった。今一番イメージ力を発揮させられる(?)のは、声楽のレッスンの時です。白いムスメが長いこと習っていたのだが、数年前からかあちゃんも教えていただくことになった。しかしかあちゃんが上越に移住したり、職場復帰して忙しかったり、でなかなか継続して歌えないのですが、細々と続いております。その1時間のレッスンでは、先生はイメージしか言いません。 「おなかの底のネジをしめる」 「体の中に空気のパイプがある。そこを上に息を上げる」 「息を循環させて。息を飲み込んで」 「顔面の骨に声を響かせる」 「お腹の一番下を絞ってそこをポイントでたたく」 先生はかあちゃんの顔を見ません。耳で生徒の声を聞いて、生徒の体の中で、意識の中でどんなことが起こっているかを判断する。先生もイメージ力をめいっぱい使っているのです。イメージって自分だけのものだから、自分の感覚でやるっきゃない。すごく思い切ってその気になることがコツなのです。
初めてイメージを実感できたのは、大学院時代の教育分析(自分がカウンセリングを受ける)の時でした。いろんなことをカウンセラーの前で話すうち、突然○○(親しい関係の者)とのつながりが、いきいきと脳裏に浮かんできたのです。それは太い太い、ピンクのゴムのイメージでした。そのとき「ああ、私は○○とこんな太くて切れないものでつながっているんだ。ずっとつながっていくんだ」とストンと心に落ちたことをよく覚えています。濃いピンクで、あんまりびろびろには伸びない。でも絶対に切れないゴムだ。無理に切ろうとか伸ばそうとかしても無駄なんだ。でも温かい色じゃん、なんて後で思いました。
理屈や理性でナットクすることも重要だけど、こんな収め方もいい。イメージ、気に入ってます。
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友だち
「あこがれの専業主婦」が口癖のかあちゃんである。フルタイムの仕事は大学卒業後ずっと続けているが、考えてみれば、そろそろゴールが見える年齢にさしかかってきた。まあ、がんばってやってきましたよ。大変なこともたくさん、トホホ。「やめてぇーぜ!」「眠い、起きたくない」と思ったこともしばしば(いや、しばしばどころか後者にいたってはほぼ毎日)。仕事をやめたら、まず納戸の片づけをして、アレをして、コレをして、など夢は大空を駆けますの。でも簡単にやめることはできません。働かねば食っていけぬ。 しかし近頃、条件がそろえばすぐさま仕事をやめたいか、と言われると、そうでもないような気がしてきた。やはり20数年の積み重ねってすごい。決して絶対ワーカホリックではないが、仕事は自分の一部になっているように感じる。もしや、これはサラリーマンおやじ化現象か?退職後はぬれ落ち葉になる運命なのであろうか。 一つは、やはり数十年の習慣を手放すのがコワイんでしょう。今さら地域になじめるか自信がないし、テンポが合うかも心配だ。そうね、仕事をしていた年月の方がしてない日々より長いんだからね。知らない間に仕事という習慣が身体にしみついていたのです。 趣味もあるし、家事も好き。でもそれは片方で仕事をがんばっているからなのかな・・・という気もしてきた。 もちろん今の仕事環境がなかなか恵まれているからなのですが、積年の経験もやっと熟してきた感のある仕事に、自分でも意外なほど気持ちがあることに気づいたのでした。仕事は、かあちゃんの一部であり、相棒であるかもしれない。どこか客観的に自分を見る唯一の機会かもしれない。時にはウンザリするけれど、コレによって鍛えられたり、励まされたり、癒されたりこともある。自分と強くつながっている友だちのようだ。やはり手放すには勇気がいる。 ドタバタ忙しく、やらねばならないこと、やりたくてもできないことが積み重なっていく。もう少しゆとりがあれば、っていつも思うのですけどね。毎日ひいこら疲れるけれど、やっぱり楽しくやりがいがある。そんな仕事にめぐり合えたことに、毎晩乾杯。
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コラム13
愛玩犬考
フレンチブルドッグの雑誌を読んでいたら、とある記事で「うちでは、ボクと○○(フレンチブルの名)が犬(雑種)を飼っている」みたいなことが書いてあった。つまりフレンチブルドッグは犬ではなく、人間の側に属している感覚、ということ。読んだ時、「でたぁ〜〜」と思った。それってまさにウチの構造ではありませんか。いつかそんなことを言うヒトが現れると思ってた。 誰が犬のマズルを短くしよう、なんて考えたのだろう。・・・ちゃんと調べたわけではないが、中国なのでは?って思う。あの“纏足”なんていうものを思いつき、実行するには、数千年の歴史が必要なのです。短吻種もそれに似たようなものかと。 マズルが極端に短くなることで、それらの犬の顔は人間に近くなる。ドングリ目が添えられれば、まさにネオテニーの権化。犬を飼っているといいながら、ちょっと違うカンジになっていく。横にマズルのある犬がいるから、それはよくわかります。人間は、猟犬や牧羊犬を作出した一方で、とにかく第一に愛らしく、赤ちゃんのような、しぐさも性質もかわいらしい「犬=愛玩犬」も創っていったのだ。狩猟犬も牧羊犬もそりゃ人間の目的がまずあって創られたのではあるが、この愛玩犬というのは、なんだかなぁ。いつまでも成長してほしくない、ずっとかわいいコドモでいてほしいという人の願望って何だろう。現代という時代とクロスオーバーしたとき、せつなさとあやうさを感じるのは私だけでしょうか。 実際、レンとタオに対する感情は違う。変な言い方だが、レンに対しては、かわいさの他に別の種に対する尊敬のような気持ち(異種間尊敬?)があるが、タオに対してはまさに擬人化の感覚が。顔の丸さにしろ、抱いた時の重さにしろ、やることにしろ、表情にしろ、人間のコドモと錯覚させる部分があるんですな。コワイけど、はまります。文句なくかわいいんです。日本の少子化の原因の一つではないか、とマジ思うくらい。 でもね、ワタシは「かあちゃんとタオがレンを飼っている」なんて言いませんよ。絶対に。「レンがかあちゃんとタオを世話している」という方が正しい。 |
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2つのTV番組から
2010年明けてすぐ、NHK“A to Z”で、「ペットは泣いている 激安競争の裏側で」と題して、保護犬を虐待する飼い主、パピーミルと言われる業者、簡単に飼育放棄する飼い主、そしてペット先進国としてドイツの取り組みなどが放映されていた。正直言って見るのがしんどかったが、レンタオという犬をパートナーとして得て、人生変わったと言ってはばからないかあちゃんであるから、やはり見ないという言い訳はたたない。元パピーミル業者という人の「飼い主が犬のことを知らなすぎる。バカなんです。めいっぱいつけこんでますよ。」という言葉が心にささった。残念ながら、それを否定はできない。以前どこかで聞いた話だが、チワワの子犬を買って飼い主はすぐ旅行に行き、帰ってきたら犬は死んでいた。飼い主からペットショップに電話が来て、「死んでしまった。どうしてくれる」「エサをやらなければ死んでしまいますよ」「そんなこと、買うとき聞かなかった」と言ったという・・・。こういう類の話は枚挙にいとまがない。一方で確実に意識の高い飼い主は多くなっているが、この格差をどうすればよいのか・・・。 修士論文で、人とコンパニオンアニマルの心理的な関係を取りあげたが、調べるほどに日本人のペットとの独特な関係が浮かび上がってきた。欧米(欧と米でも違いますが)とは真逆のこともある。犬を使役犬として使い、パートナーとして体系づけたのはヨーロッパでだと思うが、日本は農耕社会であったゆえそういう歴史はなく、「犬畜生」か「愛玩犬」かの両極端だった。その愛玩の部分が膨張して現在があるのか、“子犬”大好き、という日本人の傾向は、ペットに「かわいさ」を第一に求める、ということの現れだろう。擬人化傾向も強い。これらはよしあしの話ではないが、パピーミル業者につけこまれる一因であるのは間違いない。 話題は変わって、09年の終わりに“プリズン・ドッグ”というアメリカの番組を見た。これは、アメリカのどこかの刑務所で、保護センターから引き取った犬を、服役者が家庭犬にふさわしいようにしつけをするプログラムだ。これによって、再犯率50%が0になったという報告だった。なんと驚くべき数字であろうか。再犯率がいっこうに下がらないことが司法領域の大きな課題だというのに。服役者自身が被虐待経験を持っていたり、うつ傾向があったり、困難な問題を抱えていることがほとんどなのだが、犬との関わりがそれをいつのまにか溶かしていく。「キレる」自分をどうしようもなかった服役者が、辛抱強くやはり問題を持つ犬の世話をする。海外の研究で、動物を世話することは共感性を育てるという報告があるが、犬との関わりを通じて、人からは教わらなかった何かを彼らは体得し、それを犬にも返していた。感動しました。 “諸刃の剣”という言葉があるが、コンパニオンアニマル(実はペットという言葉は好きではないのでこう呼びます)は、人のハダカの心に寄り添ってくるだけに、一方では残虐な心を呼び起こし、かたや豊かな、他には代え難い宝物を与えてくれる存在になる。これは先に述べた格差に表れている。“意識の高い飼い主”を自認するのであれば、暗闇に向かう人々や安易にかわいさを求める人々に対し、身をもってコンパニオンアニマルの豊かさと正しいつきあい方を伝える必要と責務があると思う。 |